サラリーマンから見た「引きこもり」という幻想
奴隷は体は自由じゃないけれど、心は自由かもしれない。
サラリーマンは時間は自由じゃないけれど、勤務時間以外はやや自由。
引きこもりは体は自由だけれど、心は自由じゃない。
そんな対比をふと思うことがある。
もちろん歴史的な奴隷制度と現代社会を単純比較することはできない。
けれど、「どこが縛られていて、どこが自由か」という視点で見ると、立場によって“自由の質”はまるで違う。
サラリーマンから見た引きこもり
毎朝決まった時間に起き、満員電車に揺られ、上司の顔色を読みながら働く。
そんな日々を送るサラリーマンから見ると、引きこもりはこう見えることがある。
- 朝起きなくていい
- 嫌な人間関係に耐えなくていい
- 自分の空間で過ごせる
「自堕落だ」と思いながらも、どこかでこうも感じてしまう。
自分は怠けられない。
でも、あの生活は少し羨ましい。
ここにズレがある。
外から見える「体の自由」
引きこもりは、物理的には自由だ。
- 出勤しなくていい
- 制服もスーツもいらない
- 誰にも管理されない
現代にもし奴隷制度があったとしたら、
鎖につながれた人から見れば、部屋で過ごす引きこもりは「安全な天国」に見えるかもしれない。
体は守られている。
危険な労働もない。
命の保証もある。
外から見ると、それは「自由」に見える。
けれど、心はどうか
引きこもり本人の多くは、強い焦りの中で暮らしている。
- このままでいいのか
- 親がいなくなったらどうなる
- 同級生はもう家庭を持っている
- 社会から置いていかれている感覚
体は動かなくても、思考は止まらない。
むしろ、止まらないからこそ苦しい。
外からは「何もしていない」ように見えても、
内側では常に「遅れている自分」と戦っている。
体の自由と、心の自由は一致しない。
サラリーマンの不自由
一方でサラリーマンはどうか。
時間は会社に差し出している。
拘束時間は長い。
嫌なことも断れない。
けれど、給与という社会的承認がある。
「ちゃんとやっている」という安心感がある。
レールの上にいる感覚がある。
つまり、
- 体はやや不自由
- 心はある程度守られている
だから引きこもりを見るとき、
自堕落だと思いながらも、
どこかで「自分より自由そうだ」と錯覚してしまう。
イメージと実感は、だいたいズレている
人は自分にない自由ばかりを見る。
- 忙しい人は「時間の自由」に憧れる
- 孤立している人は「組織の安心」に憧れる
- 拘束されている人は「部屋の安全」に憧れる
でも当事者は、別の不自由に縛られている。
外から見えるのは「形」だけ。
内側にあるのは「感覚」。
このズレを無視したまま、
「楽そう」「甘えている」「羨ましい」と語ると、
どこかで誰かを傷つける。
自由とは、どこが動かせるか
本当の自由は、
- 体が動くことでも
- 時間が空いていることでもなく
「自分で選べる感覚」があるかどうかかもしれない。
選べない働き方。
選べない孤立。
選べない焦り。
どの立場にも、見えない鎖がある。
だからこそ大事なのは、
立場ではなく「感覚」に想像力を向けることだ。
結論
周りから見たイメージと、本人の感覚はだいたいズレている。
そしてそのズレの中で、
人は勝手に優劣や楽さを決めてしまう。
自由そうに見える人が、
一番不自由な心を抱えていることもある。
見えているものだけで判断しない。
それだけでも、社会の空気は少し柔らぐ。
