感情を閉じ込めて生きてきたわたしへ ほどいていく、ひとりの午後の物語
朝いちばんの光は、なぜあんなにも静かで、少しだけ勇気をくれるのだろう。
湯気の薄い輪っかがカップの上に浮かび、キッチンの時計は今日も正確に時を刻んでいる。
窓の外では、洗濯物の揺れがゆっくりと呼吸するみたいに動いている。世界は相変わらず忙しいのに、この部屋だけが、違う速度で進んでいる。
ここまでの人生をやり直すことはできない。けれど、書き直すことはできる。
そんな気がして、わたしはノートを開く。紙の匂い、ペン先のかすかな引っかかり。
最初の一行は、いつも少し照れくさい。「今日は、ちゃんと感じてみる。」
その一文だけで、胸のどこかが小さくほどける音がする。まるで固結びのリボンを、片手でそっと引くみたいに。
子どもの頃、「そんな顔をしないの」「泣いたって仕方ない」と言われるたび、胸の奥のやわらかい場所をぎゅっと押し固めた。
泣いた顔は迷惑で、怒った声は危険で、悲しい目は“弱い”と決めつけられる。そんな空気の中で、感情はいつも後回しになった。
正しさは安全だった。空気を読むのは生き延びる術だった。
そこで身につけた“感じないふり”は、つやのある鎧みたいに見えて、実は重かった。
鎧は優秀で、場の温度を読み、誰かの機嫌を当て、先回りして問題を消してくれる。
けれど、その代償に、わたし自身の輪郭が少しずつ薄くなっていった。
大人になってからも、その重さはふいに肩に戻ってくる。
楽しかったと口にするのに少し時間がかかる。
悲しいと伝える前に、相手の表情を探してしまう。
褒められても「たまたまだよ」と返す癖が抜けない。
自分の本音を言いかけて、「でも、これは言わないほうが…」と飲み込む癖が、舌の裏側に残っている。
鎧はたしかに守ってくれた。
でも同時に、手触りのある喜びから、わたしを遠ざけた。
笑っているのに心がいない日。頑張っているのに満たされない日。
そんな日は、何かが足りないというより、何かが「締めすぎ」なのだと、最近ようやく気づきはじめた。
沈黙を眺める練習
夕方、混み合う電車の窓に映る自分の顔は、思っていたよりも落ち着いて見える。
けれど胸のあたりに、言葉にならない重さがある。
一日の終わりに「本当は今日、どう感じていた?」と尋ねると、返事が返ってこない日がある。
その沈黙をごまかさずに眺めること。
これが最近のわたしの練習だ。
沈黙は、ただの空白じゃない。
言葉になる前の“混線”みたいなものが、体の中でゆっくり整理されている時間。
焦って結論を出さなくてもいい。
むしろ、「わからない」を抱えたままお茶を飲めるようになると、心は少しずつ信頼を取り戻す。
「感じる」は派手じゃない
「感じる」のは、ドラマチックなことじゃない。
スーパーで、少し高いトマトを手に取る自分を許す。
メールの返事を急がず、いったん深呼吸してから書き始める。
「それはわたしには難しい」と短い言葉で断る。
どれも小さい。けれど、毎回“過去のわたし”が少し驚く。「そんなわがまま、言っていいの?」と。
そこで微笑んで、言い直す。
「これはわがままじゃない。わたしの境界線だよ。」
境界線は、壁じゃない。
“どこまでなら心地よくつながれるか”を教える、やわらかい目盛りみたいなものだ。
たとえば、LINEの通知。
返事を急いで書いて、送ったあとにどっと疲れるなら、その通知は今のわたしには少し強い。
「あとで返す」を選べるだけで、心拍が落ち着く。
自分の体が発する小さな信号を、無視しない。
それも立派な「感じる」だ。
怒りは“悪者”じゃなかった
境界線といえば、怒りのことをずっと誤解していた。
怒りは悪いもの、制御すべきもの、隠すべきもの。
そう決めつけていたせいで、怒りが教えてくれていた「ここから先は痛いよ」というサインも、同時に消してしまった。
怒りは、誰かを傷つけるためだけに生まれるのではなく、わたしを守るためにも生まれる。
その視点に気づいた日、肩の力がゆるんだ。
「怒っていい」と自分に許可を出したら、逆にトゲトゲが少し減った。おもしろい。
怒りは、火花みたいに見えるけれど、実は“サインランプ”でもある。
無理をしているとき、尊重されていないとき、疲れが溜まっているとき。
そのランプが点くのは、壊れかけの前兆じゃなくて、修理のタイミングを教えるためだった。
悲しみは輪郭をなぞる
悲しみはどうだろう。
悲しみは、失ったものの輪郭をなぞる作業だ。
なくしたから、こんなに痛い。
それを認めるのはしんどいけれど、悲しみに触れると、持ち続けてきた大切さが光を帯びる。
「よく大事にしてきたね」と言えるようになって、悲しみの役目も見えてきた。
涙は敗北じゃない。完了の儀式だ。
涙のあとで、部屋の空気が少し澄む。
目の奥の熱が引いたあと、世界が少しだけ、角を丸めて見える。
悲しみの中には、言えなかった言葉が眠っていることがある。
「本当は寂しかった」
「本当は嬉しかった」
「本当はもっと甘えたかった」
それらをひとつずつ拾うと、悲しみは“重さ”から“意味”へ変わっていく。
言葉になる前の場所
カウンセリングの部屋で、わたしは何度も沈黙した。
プロの前でも言葉が見つからないことはある。
でも、沈黙には意味があるのだと教わった。
言葉になる前のもやもやが、からだのどこにあるかを感じる時間。喉か、胸か、みぞおちか。
「そこに手を当ててみましょう」と言われ、言われたとおりにすると、思いがけず涙が出ることがある。
あの瞬間に、子どもの頃のわたしが手を振る。「やっと来たね」と。
わたしは頷く。「遅くなってごめん。今度は置いていかない。」
涙が出るとき、体はちゃんと働いている。
言葉が出ないときも、心は休んでいる。
“うまく話せない自分”を責める代わりに、「今は、ここまででいいよ」と言えるようになると、回復はゆっくり進みはじめる。
頼ることは、回復の技術
専門家の助けを借りることに、以前は抵抗があった。
“自分でなんとかする力がない”と証明してしまう気がしたから。
でも実際は逆だった。
からだと心の扱い方を学ぶのは、筋トレに近い。回数を重ねると、扱える重さが少しずつ増える。
重く感じる日は、軽いメニューにする。できたことを数える。
それを繰り返すうち、自分の機嫌を誰かの手に預けずにすむ時間が増えた。
頼ることは、依存ではない。
「助け方を知っている人」に、安全に並走してもらうこと。
転びそうなときだけ手をつないで、歩けるところは自分で歩く。
そのバランスがわかってくると、人生は少しだけ、呼吸しやすくなる。
古いノートの自分を、置き去りにしない
ある雨の日、古いノートを読み返した。
そこには、ぎこちない言葉が並んでいた。
「うれしいと言えなかった」「ごめんねを言いすぎた」「本当は、あの景色がきれいだった」。
読み返しながら、ふいに笑ってしまう。なんて不器用で、なんて愛しい。
過去のページを抱きしめるみたいにノートを閉じたら、今のページに書けることが増えた。
わたしはもう、あのときの自分を置き去りにしない。
置き去りにしない、というのは“美化する”ことでもない。
うまくいかなかった日も、嫌いになった自分も、ちゃんと連れていく。連れていける分だけ、今が自由になる。
最近のノートには、短い一文が多い。
「今日は雨の匂いがよかった」
「コンビニの店員さんの『ありがとうございます』があたたかかった」
「断れた。えらい」
事実だけ並べるのに飽きたら、少しだけ感想を書く。
「わたしは、よくやっている」
たった一行が、その日のわたしを支える柱になる。
やさしさを受け取る準備
人に頼るのは、今でも少しだけ怖い。
でも、勇気を出して「助けて」を口にした日、わたしは人間関係の景色が変わるのを見た。
誰かは肩を貸してくれ、誰かはただ隣で静かに座ってくれた。
「弱さを見せたら離れていく」という古い思い込みは、現実とゆっくり衝突して、少しずつほどけていく。
もちろん、全員がやさしいわけじゃない。
けれど、やさしさを受け取る準備が整っているとき、世界はちゃんと合図を送ってくる。
「ここは安全だよ」と。
その合図は、派手な言葉じゃなくて、返事の速度だったり、質問のやわらかさだったりする。
“傷つけない態度”が、どれほど尊いかを、今のわたしは知っている。
安心な場所に身を置くと、心は勝手に開く。
否定されない輪の中では、深呼吸がひとつ深くなる。
わたしには、そういう場所がいくつかある。
静かなカフェの角の席。陽の入る自室の床。少し遠回りの並木道。
そして、言葉を置いておけるこのブログ。
画面の向こうにいる“あなた”に向かって、今日の小さな勇気を書き残す場所。
今日できる、いちばん小さなワーク
もし、あなたも感情を閉じ込めて生きてきたのなら、今日できることをひとつだけ一緒にやってみませんか。
胸に手を当てて、目を閉じ、ゆっくり息を吸って吐く。
からだのどこが楽で、どこが少しつっぱっているかを観察する。
浮かんできた感情に名前をつける必要はない。ただ「ここにいるね」と気づくだけでいい。
もう少し余裕があれば、次のどれかをひとつ。
・いまの自分に「今は何が必要?」とだけ聞く
・五分だけ、スマホを置く
・水を一口飲む(喉の感覚を確認する)
・肩をすくめて、ふっと落とす(体に“終わったよ”を伝える)
それだけで、内側の鎧は一枚うすくなる。
できたら、信頼できる誰かに短い一言を。
「今日はここがうれしかった」「ここがちょっと苦しかった」。
説明は要らない。結論も要らない。
ただ“共有”するだけで、感情は行き場を見つける。
言葉が見つからなければ、スタンプひとつでもいい。沈黙より、少しだけ外へ出せたら、それで十分。
忘れないでいたいのは、感情は敵ではなく、わたしを守るための味方だということ。
怒りは境界線を教え、悲しみは大切さを照らし、寂しさは人とつながる道を差し出す。
どれも、わたしを壊すためではなく、生かすためのサインだった。
感情が荒れる日は、心がダメになった日じゃない。
むしろ、心が「ちゃんといる」と知らせてくれている日なのだと思う。
夜、机の上を片づける。
今日のページを閉じる前に、最後の一行を書く。
「また明日も、感じてみる。」
明日のわたしが少しだけ軽やかに歩けるように、今のわたしがそっと背中を押しておく。
物語はまだ途中だ。
けれど、途中であることを恥ずかしいと思わなくなった。
不完全なまま進む勇気を、ようやく手に入れたから。
昨日より少しだけ、鎧の留め具を緩める。
その分、風がよく通る。心の中に、換気の窓が増えていく。
ここまで読んでくれたあなたへ。
もしよかったら、あなたの「今日の一行」もコメントで教えてください。
どんな短さでも、どんな不格好でも大丈夫。
あなたの言葉が、どこかの誰かの夜をやわらげるはずだから。
追伸(安心のための小さなメモ)
しんどさが大きい日は、一人で抱え込まず、医療や相談機関に頼ってください。
頼ることは弱さではなく、回復の行動です。
「今すぐ全部を変える」より、「今日の安全を確保する」ことを優先していい。
あなたの回復は、ちゃんと途中で立ち止まっても、少しずつ進んでいきます。
