縄文人から学ぶ、戦争の終わらせ方|ポリアモリーから競争社会へ、私たちは何を失ったのか
なぜ現代社会では、恋愛も仕事も「競争」が当たり前になったのでしょうか。
恋人を得るために競い、仕事を得るために競い、結果として多くの人が疲弊しているにもかかわらず、「それが普通」「そういうものだ」と受け入れて生きています。
しかし本当に、競争と奪い合いは人類にとって避けられない運命なのでしょうか。
本記事では、縄文時代のシェア社会を手がかりに、ポリアモリーから排他恋愛へ、共創から競争社会へと変容してきた歴史を辿りながら、戦争や過剰競争を減らすヒントを考えます。
縄文時代は「奪わない社会」だった
縄文時代は、農耕が本格化する以前の狩猟採集・半定住社会です。
この時代の特徴は、富や土地を独占しにくい構造にありました。
- 食料は分け合う
- 子育ては共同体で行う
- 人間関係は固定されすぎない
- 一人が多くを抱え込まない
縄文社会に暴力や衝突がまったくなかったわけではありませんが、少なくとも組織的・恒常的な戦争社会ではなかったと考えられています。
重要なのは、ここに「奪い合わなくても成り立つ生活設計」が存在していた点です。
ポリアモリー的関係が自然だった理由
縄文的なシェア社会では、恋愛やパートナー関係も流動的でした。
特定の一人を独占する必要がなく、愛情や役割は分散されていました。これは「奔放」というより、社会構造に適応した合理的な形だったと言えます。
現代で言う「ポリアモリー」に近い関係性は、むしろ人類史の中では長く続いた標準的な状態でした。
排他恋愛への転換点|農耕・相続・国家
状況が大きく変わるのは、農耕が始まり、土地と財産を「所有」できるようになってからです。
土地を持ち、富を蓄積できる社会では、次の問題が生まれます。
- 誰の子が相続するのか
- 血統をどう管理するのか
- 責任の所在をどう明確にするか
ここで婚姻制度が整備され、一夫一妻制が広がっていきます。
さらに国家が成立すると、人口把握・徴税・徴兵のために、家族単位で管理しやすい制度が必要になります。
排他恋愛と一夫一妻制は、国家運営にとって非常に都合が良かったのです。
宗教が「制度」を「道徳」に変えた
この婚姻構造は、宗教によって「神聖なもの」「正しいもの」として固定化されました。
制度上の都合は、やがて道徳となり、常識となり、個人の感情の中にまで入り込みます。
こうして私たちは、「恋人とそれ以外の人を明確に分ける」「新しい恋をするには今の恋を終わらせる」という考え方を、疑いなく受け入れるようになりました。
産業革命が競争を日常にした
産業革命は、競争をさらに加速させます。
自給的な生活から賃金労働へ移行し、人は「時間」を売って生きるようになりました。
仕事は競争になり、効率が求められ、ときには明らかに無駄と分かっていても止められない生産が行われます。
恵方巻の大量廃棄のように、作っている本人が無意味だと分かっていても拒否できない構造が生まれました。
賃金労働者の多くは資本を持たず、時間と空間を拘束され、勤務日前日の寝る時間さえ事実上自由に決められない生活を「普通」として受け入れています。
教育は「競争社会に適応する身体」を作る
この構造に人を適応させるのが、教育です。
- 小学校で時間割に従って行動する訓練
- 中学校で先輩・後輩という序列を学ぶ
- 評価され、比較されることに慣れる
こうして、会社や組織の支配構造に違和感なくはまる身体が作られていきます。
シェア社会を広げれば、戦争は減らせるのか
縄文時代のようなシェア社会を、現代にそのまま再現することはできません。
しかし、奪い合いを前提としない設計を、個人や企業レベルで部分的に広げていくことは可能です。
- 生活コストを下げ、競争の強制力を弱める
- 収入や関係性を分散し、一点依存を減らす
- 共同体やコミュニティで助け合いを可視化する
恋愛も労働も「奪い合い」から距離を取れれば、不安と攻撃性は確実に下がります。
それは結果として、国家間の争いを正当化する物語を弱めることにもつながるでしょう。
まとめ|戦争を終わらせるヒントは、日常の設計にある
戦争や競争は、人間の本性ではありません。
それは、国家・産業・制度の都合によって作られ、道徳として内面化されてきたものです。
縄文人から学べるのは、「奪わなくても回る社会は存在しうる」という事実です。
恋愛、仕事、生産のあり方を少しずつシェア型に戻していくこと。それが、遠回りに見えて、もっとも現実的な戦争の終わらせ方かもしれません。
