日本人は安定志向だ、とよく言われる。
起業して一発当てるより、毎月決まった給料をもらいたい。
投資で大きく増やすより、銀行預金のほうが安心する。
多少給料が安くても、正社員として長く働ける会社を選びたい。
こうした価値観は、ときに「日本人はリスクを取らない」と批判される。
でも、本当にそうなのだろうか。
むしろ僕には、日本人が安定を好むようになったというより、安定を選ぶことが合理的になるように社会そのものが作られてきたように見える。
そして今、その「安定を選べば安定できる」という前提だけが、静かに崩れ始めている。
- 安定志向は「性格」ではなく、社会が作ったものかもしれない
- 「リスクを取らない」こともリスクになった
- 「安定」は椅子取りゲームになっていく
- 人口減少は「地方から静かにサービスが消える」という形でやってくる
- 作るときは「国家事業」、畳むときは「自己責任」
- 日本の「安くて高品質」は誰かが負担していた
- 問題は「日本が縮むこと」だけではない
- 「誰が悪いか」ではなく「便益はどこへ行ったか」
- 縮小社会では「資産を持つ人」が強くなる
- だから「労働者でありながら資本側にも足を置く」という発想が必要になる
- 「安定した会社」を探すより「収入源を複数持つ」
- 成長する社会の生き方から、縮小する社会の生き方へ
- おわりに——「安定」を捨てるのではなく、作り直す
安定志向は「性格」ではなく、社会が作ったものかもしれない
会社員として長く働けば、毎月給料が入る。
社会保険に加入できる。
住宅ローンも組みやすい。
勤続年数が長くなれば賃金も上がる。
退職金もある。
老後には年金がある。
こうした仕組みが何十年も続けば、「会社員として安定して働くこと」が人生の正解になるのは当然だと思う。
逆に起業やフリーランスには、不安定というラベルが貼られる。
収入が不安定なら住宅ローンの審査でも不利になるし、病気になれば仕事が止まる。投資には元本割れの可能性がある。
だったら普通の人が安定を選ぶのは、臆病だからではない。
かなり合理的な判断だった。
問題は、その合理性を支えていた社会のほうが変わってしまったことである。
「リスクを取らない」こともリスクになった
昔なら、
「大きなリスクを取らない代わりに、大きく儲からなくても安定して暮らす」
という交換条件が成立した。
ところが現在は少し違う。
真面目に働いていても、物価が上がれば実質的な購買力は落ちる。
社会保険料などの負担もある。
会社が永久に存続する保証もない。
正社員になったからといって、定年まで同じ条件で働けるとも限らない。
つまり、
リスクを取らないことで避けられるリスクより、何もしないことで背負うリスクが大きくなってきた。
ここが非常に重要だと思う。
しかも、この変化は見えにくい。
明日突然給料が半分になるなら誰でも危機感を持つ。
ところが、毎年少しずつ生活費が上がり、少しずつ自由に使えるお金が減る場合、人は案外それに適応してしまう。
外食を一回減らす。
旅行をやめる。
服を買わなくなる。
サブスクを解約する。
そして最後には食費まで削る。
一つ一つは小さな生活防衛なので、「自分は貧しくなった」という大事件として認識されにくい。
社会全体が同時に下降しているなら、なおさらだ。
隣の人も苦しくなっているので、自分だけが転落したようには見えない。
「安定」は椅子取りゲームになっていく
さらに問題なのは、みんなが欲しがっている「安定」そのものが減っていることだ。
人口減少社会では、国内市場そのものが大きくなりにくい。
企業は固定費を抱えたくない。
地方では人口減少によって商店や交通機関の維持が難しくなる。
社会保障も、支える現役世代が減っていく。
すると、
「リスクを取らず普通に働けば安定できる」
というゲームから、
「減っていく安定した席をみんなで奪い合うゲーム」
へ変わっていく。
本人は昔と同じように安定を求めているのに、安定を手に入れられる確率だけが下がっていく。
これは個人の努力だけでは解決しにくい。
椅子取りゲームでどれだけ真面目に歩いても、椅子そのものが減れば座れない人は増えるからだ。
人口減少は「地方から静かにサービスが消える」という形でやってくる
人口減少というと、
「2050年には人口が何千万人になる」
という巨大な数字で語られがちだ。
でも、僕たちが実際に体験する人口減少は、もっと具体的だと思う。
近所のスーパーが閉店する。
バスが一時間に一本になる。
鉄道が廃線になる。
病院が遠くなる。
水道料金が上がる。
雪国なら除雪を頼める人がいなくなる。
宅配や公共サービスの維持費が高くなる。
つまり人口減少とは、単に「日本人が少なくなること」ではない。
これまで当たり前だった便益を、同じ価格では維持できなくなることでもある。
戦後の日本は人口が増えることを前提として作られてきた。
山を切り開く。
住宅地を作る。
鉄道を通す。
道路を作る。
水道を引く。
人が増えれば、それらを利用する人も増える。
ところが人口減少期には、この論理が逆回転する。
利用者が減る。
赤字になる。
本数を減らす。
さらに不便になる。
人が出ていく。
もっと利用者が減る。
この循環に入る。
作るときは「国家事業」、畳むときは「自己責任」
ここには少し皮肉な構造がある。
インフラを作った時代には、
「日本を豊かにする」
という国家的なプロジェクトだった。
ところが利用者が減って維持できなくなると、
「地方自治体で考えてください」
「利用者が少ないので仕方ありません」
「住民負担をお願いします」
となりやすい。
作るときは社会全体で負担し、畳むときは地域や個人が負担する。
これから日本各地で、この問題が増えていくのではないかと思う。
そして同じ構造は、インフラ以外にも存在する。
日本の「安くて高品質」は誰かが負担していた
日本はサービスの質が高いと言われる。
安くておいしい飲食店。
時間通りに来る交通機関。
丁寧な接客。
高品質な製品。
安全な水道。
それ自体は素晴らしい。
でも、よく考えると不思議でもある。
どうして、そんな高品質なものを安く提供できたのだろう。
そこには技術力だけでなく、
長時間労働、
サービス残業、
低賃金、
下請け企業への値下げ圧力、
現場の熟練労働者、
人口増加期に整備されたインフラ、
といった「見えない補助金」があったのではないだろうか。
つまり日本の高品質は無料ではなかった。
値札に書かれていない場所で、誰かが代金を払っていた。
人手不足が深刻になれば、その負担を引き受ける人も減る。
だからサービスが悪くなる。
値段が上がる。
営業時間が短くなる。
配送に時間がかかる。
これを単純に「日本が劣化した」と考えることもできる。
しかし別の見方もできる。
今まで隠されていた本当のコストが、ようやく価格やサービス水準に現れ始めただけなのかもしれない。
問題は「日本が縮むこと」だけではない
ここまで考えると、人口減少そのものを止めれば全部解決するように思える。
しかし現実には難しい。
出生率を上げる政策を今日実施しても、明日から働く人が増えるわけではない。
今年生まれた子どもが労働力になるには20年前後かかる。
しかも、子どもを産む世代そのものがすでに減っている。
だから僕は、
「どうすれば昔の日本に戻れるのか」
という問いだけでは足りないと思っている。
むしろ重要なのは、
縮小することを前提として、そのコストを誰が負担するのか。
こちらではないだろうか。
「誰が悪いか」ではなく「便益はどこへ行ったか」
経済の議論は、すぐ犯人探しになりやすい。
政府が悪い。
企業が悪い。
高齢者が悪い。
若者が悪い。
外国人が悪い。
富裕層が悪い。
しかし、それだけでは問題の構造を見失う。
僕が最近面白いと思っているのが、
「その仕組みによって生まれた便益は、最終的にどこへ蓄積しているのか」
と考える方法だ。
たとえば企業が人件費を減らせば、そのお金は消滅するわけではない。
利益になる。
投資に回る。
現金として蓄積される。
株主還元に回ることもある。
観光客が増えれば、日本全体が均等に豊かになるわけでもない。
人気観光地のホテル、不動産、地主、交通事業者などには大きな便益が生まれる一方、観光客が来ない地方ではインフラ維持費だけが重くなることもある。
つまり重要なのは、
「日本全体では得なのか損なのか」
という巨大な主語だけではない。
利益を受け取る人と、コストを負担する人が同じなのか。
ここを見る必要がある。
縮小社会では「資産を持つ人」が強くなる
ここでピケティの有名な「r > g」という話につながる。
簡単に言えば、
r=資本から得られる収益率
g=経済全体の成長率
である。
経済成長より資産から得られる利益のほうが大きければ、長期的には資産を持っている人の富が増えやすくなる。
人口減少社会の日本では、この問題はさらに重要になる。
人口が減り、国内経済がほとんど成長しなくても、世界経済まで同じように止まるとは限らない。
海外で稼ぐ企業もある。
世界株に投資することもできる。
不動産から家賃を得る人もいる。
つまり、
日本国内で労働することから得られる収入は縮小圧力を受ける一方、資本は国外を含めて収益機会を探せる。
ここに大きな非対称性がある。
労働者は簡単には動けない。
家族もいる。
住居もある。
仕事もある。
言語の壁もある。
しかしお金には足がある。
ボタン一つで世界中へ移動できる。
縮小社会ほど「動けるもの」と「動けないもの」の差が重要になるのだと思う。
だから「労働者でありながら資本側にも足を置く」という発想が必要になる
では普通の人はどうすればいいのか。
いきなり会社を辞めて起業しよう、という話ではない。
むしろ逆だ。
安定が大切なら、安定した収入を維持してもいい。
ただし、
収入の100%を労働に依存する状態から少しずつ離れる。
これは考えてもいいのではないだろうか。
少額でも株式を持つ。
インデックス投資をする。
小さな事業を持つ。
自動化できる収益源を作る。
著作物やソフトウェアなど、繰り返し価値を生むものを作る。
前澤友作氏の「カブアンド」のように、普段の生活支出を株式保有につなげようとする試みも、この文脈では興味深い。
もちろん、それだけで日本の構造問題が解決するわけではない。
投資には損失もあるし、誰もが同じ条件で資産形成できるわけでもない。
「貧しいのは投資しなかった本人の責任だ」という話にしてしまえば、結局また自己責任論に戻ってしまう。
それでも、
労働者か資本家か、という二択ではなく、普通の労働者も少しずつ生産手段や資本を持つ。
この方向には可能性があると思っている。
「安定した会社」を探すより「収入源を複数持つ」
ここまで来ると、「安定」の意味そのものを考え直したほうがいいのかもしれない。
昔の安定は、
「一つの会社に長く勤めること」
だった。
しかし、一社に生活のほぼすべてを依存することは、本当に安定なのだろうか。
会社が傾けば収入が止まる。
病気で働けなくなれば収入が止まる。
業界そのものが縮小すれば逃げ場がない。
それなら、
給与がある。
少額の配当がある。
小さな副業収入がある。
著作物から少し入る。
自動化された仕組みから少し入る。
という状態のほうが、むしろ現代的な意味では「安定」に近いのかもしれない。
一つ一つは小さくても、一つが止まったとき全部がゼロにならないからだ。
これは「一発逆転しよう」という話とは正反対である。
むしろ、
安定を求めるからこそ、収入源を一つにしない。
そんな発想である。
成長する社会の生き方から、縮小する社会の生き方へ
日本がもう一度高度経済成長する。
人口が増える。
地方にも人が戻る。
給料が毎年上がる。
社会保障の負担も軽くなる。
そんな未来が来ればもちろん嬉しい。
しかし、個人の人生設計をそこに賭けるのは少し危険だと思う。
僕たちに必要なのは、
「どうすれば昔に戻れるか」
だけではなく、
「縮小する社会の中で、どうすれば個人まで一緒に縮小せずに済むのか」
という発想なのではないだろうか。
そしてこれは、政府だけが考える問題でもない。
制度としては、縮小の負担をどこへ配分するのか。
企業としては、人手不足の中でどう生産性を上げるのか。
個人としては、労働以外の小さな生産手段をどう持つのか。
それぞれ別のレイヤーで考える必要がある。
おわりに——「安定」を捨てるのではなく、作り直す
僕は「安定志向」が悪いとは思わない。
人間なら、明日の生活が保証されているほうが安心する。
むしろ問題なのは、
昔の安定モデルを信じ続ければ安定できる、という前提のほうだ。
人口が増え、企業が成長し、働く人も増え、社会保障を支える人も増える。
その時代に作られた「会社に所属していれば安定」というモデルを、人口が減る時代にもそのまま適用できるとは限らない。
これから必要なのは、安定を捨ててギャンブルすることではない。
反対だ。
会社だけに依存しない。
国だけにも依存しない。
自分の労働力だけにも依存しない。
少しずつ資産を持つ。
少しずつ生産手段を持つ。
小さくても複数の収入経路を作る。
そうやって、
「与えられる安定」から「自分で組み合わせて作る安定」へ移行していく。
縮小する日本で必要になるのは、案外そんな地味な変化なのかもしれない。
「高収入か、安定か」という二択そのものが、すでに古くなり始めている。
これから問われるのは、
安定した椅子に座れるかではなく、椅子がなくなっても生きていける仕組みを持っているか。
なのだと思う。
