農園長が辞めると、植物まで捨てられる「仕事風の作業」が崩れる瞬間

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以前、私は法定雇用率を満たすための農園型雇用について、「仕事風の作業」という言葉を使った。

一見すると、植物を育て、収穫し、袋詰めをする。作業着を着て、決められた時間に出勤し、指示に従って手を動かす。

外から見れば、それは立派な仕事に見える。

しかし、そこで作られたものが売り物にならず、無料で配布されたり、ときには廃棄されたりするのであれば、その作業は本当に「生産」なのだろうか。

そして、その疑問をさらに強くする出来事があった。

農園長(≒管理者)が退職するとき、区画にある植物をすべて廃棄し、新しい農園長が来たら、また一から作り直すという。

私はこの話を聞いたとき、あらためて強い違和感を覚えた。

普通の工場なら、責任者が辞めても商品は残る

一般的な工場や生産現場を考えてみたい。

工場長が退職したからといって、製造途中の商品や原材料をすべて捨てるだろうか。

通常であれば、担当者が変わっても、商品、設備、作業記録、ノウハウは会社に残る。

引き継ぎを行い、新しい責任者が生産を継続する。

責任者が交代するたびに、製品を全廃棄して、何もない状態からやり直す工場があれば、経営上、大きな問題になるはずだ。

農業でも同じである。

責任者が変わったとしても、育てている作物に価値があるのであれば、できる限り栽培を引き継ごうとするのが自然だろう。

病害虫が発生した、品種を変更する、設備を大幅に入れ替えるといった事情があれば、全廃棄にも一定の合理性はある。

しかし、単に「農園長が退職するから」という理由だけで、育ててきた植物をすべて捨てるのであれば、話は変わってくる。

植物は商品ではなく、舞台装置だったのか

農園長がいなくなった瞬間に、植物まで不要になる。

この運用からは、植物が商品や生産資産として扱われていなかった可能性が見えてくる。

本当に価値があるのは植物ではなく、

障害者が出勤する場所。

作業をしているように見える環境。

法定雇用率を満たすための雇用枠。

そして、「農園で働いている」という外形。

そうした仕組みのほうなのではないか。

言い換えれば、植物は生産物ではなく、雇用を成立させるための舞台装置だったのではないかという疑問である。

植物が商品であれば、農園長が変わっても引き継がれる。

しかし、植物が「仕事らしさ」を演出するための道具であれば、演出を管理する人が辞めた時点で、一度すべてをリセットしても大きな損失とは見なされない。

ここに、「仕事」と「仕事風の作業」の境界が現れているように思う。

本当に作っているのは、ハーブではなく雇用率かもしれない

農園では、植物を育てているように見える。

だが、組織が本当に作っているものは、植物ではないのかもしれない。

企業に提供しているのは、生産物ではなく、法定雇用率を満たすための仕組みである。

そこで働く障害者も、農園で作られる商品も、主役ではない。

主役は、企業が自社の職場環境を変えなくても、障害者雇用の数字を確保できることだ。

この構造では、生産物の品質や売上よりも、「人が決められた時間にそこにいること」が優先される。

だから、生産物を廃棄しても仕組みは壊れない。

一方で、障害者が出勤しなくなれば、雇用率上の数字は失われる。

何を守り、何を簡単に捨てるのかを見ると、その事業が本当に大切にしているものが分かる。

農園長の退職時に植物を全廃棄するという出来事は、その優先順位をあまりにも分かりやすく示している。

現場の人を責めたいわけではない

ここで、現場の農園長や支援スタッフを責めたいわけではない。

現場には現場なりの事情がある。

人手不足、引き継ぎ期間の短さ、栽培管理の難しさ、安全上の判断など、外からは分からない理由がある可能性もある。

また、そこで働く障害者にとっても、賃金を得られることや、通う場所があることには現実的な意味がある。

一般就労は簡単ではなく、A型事業所では十分な収入を得にくい。

生活費を得るために、疑問を感じながらも農園型雇用を選ぶ人がいるのは、自然なことだと思う。

だから、問題を個人の責任や善悪の話にしてはいけない。

問うべきなのは、なぜこのような不自然な仕組みでも、障害者雇用として成立してしまうのかという制度設計である。

「本人が選んだ」で終わらせてはいけない

農園型雇用を擁護するとき、よく「選択肢が増えた」という説明が使われる。

確かに、働く場所が増えること自体は悪いことではない。

しかし、選択肢であるためには、それぞれの選択肢が一定の質を持っていなければならない。

一般就労は高い壁で、A型は低賃金。

その間に、最低賃金より少し高い賃金を得られる農園型雇用があれば、生活のために選ぶ人はいる。

だが、それを「本人が自由に選んだのだから問題ない」と言ってしまえば、雇用の質を改善する責任が消えてしまう。

選ばれていることと、望ましい仕組みであることは同じではない。

他に現実的な選択肢が少ないから選ばれている可能性もある。

生産物が捨てられても、雇用率は残る

農園長が辞めれば、植物は捨てられる。

新しい農園長が来れば、また種をまき、苗を育て、作業を始める。

そこで繰り返されるのは、生産ではなく、作業環境の再構築なのかもしれない。

植物が育つことより、作業が存在すること。

商品が売れることより、出勤記録が残ること。

本人の能力が伸びることより、雇用率が満たされること。

もちろん、すべての農園型雇用が同じだとは言えない。

実際に販売を行い、利用者の成長や職域拡大に取り組んでいる現場もあるだろう。

しかし、責任者の退職と同時に植物を全廃棄する運用には、その農園が何のために存在していたのかを問い直させる力がある。

普通の工場では、工場長が辞めても商品は残る。

それなのに、農園長が辞めると植物まで捨てられる。

この違いは小さくない。

それは、そこで作られていたものが植物ではなく、「雇用しているように見える状態」だった可能性を示している。

仕事風の作業は、日常の中では仕事に見える。

だが、責任者が交代した瞬間、その不自然さが一気に表面化する。

植物を捨てても困らないのであれば、最初から植物は目的ではなかった。

その農園で本当に育てられていたのは、ハーブでも野菜でもなく、法定雇用率を満たすための数字だったのかもしれない。

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