- ― 制度の合理性と、その先にある問い ―
- はじめに:「合法」であることと「望ましい」ことの距離
- なぜ雇用率代行ビジネスは生まれたのか
- 企業にとっての合理性
- 働く側から見た「選ぶ合理性」
- 短期的な安定と、長期的な停滞
- 生産ではなく「時間の消費」が目的になっていないか
- 「偽装工場」という違和感
- 現場スタッフに押しつけられる役割
- 企業と働く人の距離が遠すぎる
- 福祉事業所との間に生まれる歪んだ競争
- 問題の中心は、働く本人ではない
- 「選択肢を増やしている」という説明の限界
- 制度をどう変えるべきか
- 「毎日・同じ場所・同じ時間」を疑う
- 「雇用」ではなく「生活を守る」を目的にする
- 代案が乏しいままでは、批判だけで終わる
- おわりに:数字の先にある、人の時間
― 制度の合理性と、その先にある問い ―
はじめに:「合法」であることと「望ましい」ことの距離
雇用率代行ビジネスは、違法ではない。
単純に「制度の穴を突いている」とも言い切れない。
むしろ現行の障害者雇用制度の枠内で、企業、障害者、行政のそれぞれにとって、一定の合理性を持つ仕組みとして成立している。
企業は法定雇用率を満たしやすくなる。
働く側は、一般就労よりも配慮を受けやすい環境で、最低賃金以上の収入や社会保険を得られる。
行政にとっても、障害者雇用率という数値を押し上げる効果がある。
しかし、合法であることと、社会的に望ましいことは必ずしも一致しない。
今この瞬間の雇用率を満たすために設計された仕組みは、5年後、10年後の当事者の人生に何を残しているのだろうか。
この記事では、雇用率代行ビジネスが生まれた背景と、制度が抱える構造的な問題、そして代案の可能性について整理してみたい。
なぜ雇用率代行ビジネスは生まれたのか
障害者手帳の区分には、大きく分けて身体障害、知的障害、精神障害がある。
もちろん個人差は大きく、障害の種類だけで就労のしやすさを決めることはできない。
そのうえで、企業の採用現場では、身体障害者や知的障害者には、これまで一定の雇用ルートが整備されてきた。
身体障害者は、職場環境や設備を調整することで、安定した就労につながる場合がある。
知的障害者についても、特別支援学校から企業や福祉サービスへ移行する進路が、地域差はありながらも作られてきた。
一方で、法定雇用率が段階的に引き上げられるなか、採用対象として急速に注目されるようになったのが精神障害者である。
精神障害には、身体障害とは異なる難しさがある。
症状や体調が固定されているとは限らず、日によって大きく状態が変化することがある。
今日は問題なく働けても、翌日は起き上がれない。
数か月安定していても、環境の変化や人間関係によって急に調子を崩す。
そのような状態も珍しくない。
企業側から見ると、次のような負担や不安が生じる。
・突然の欠勤や早退が起きる可能性がある
・対人関係の調整が必要になる
・体調や症状への配慮方法が分からない
・上司や同僚のサポート負担が増える
・配属先によっては、業務全体への影響が出る
こうした事情から、以前は障害者雇用納付金を支払い、雇用率の未達成を事実上受け入れる企業もあった。
しかし、障害者雇用をめぐる企業への評価や行政指導が強まり、公共調達や取引先からの評価にも影響するようになると、企業にとって未達成のリスクは単なる金銭負担では済まなくなっていった。
そこで登場したのが、働く場所、作業、管理、障害者への支援をまとめて提供する、農園型をはじめとした雇用率代行ビジネスである。
企業にとっての合理性
雇用率代行サービスを利用すれば、企業は自社の本社や店舗、工場の中に障害者の仕事を新しく作らなくてもよい。
採用した障害者は、代行事業者が用意した農園や作業拠点で働く。
日常的な作業管理や勤怠確認、現場での対応も、代行事業者のスタッフが担う。
企業にとっては、非常に分かりやすい仕組みだ。
自社の職場環境を大きく変えずに、法定雇用率を満たしやすくなる。
現場の社員に障害者雇用の専門知識がなくても、外部の仕組みに任せられる。
法定雇用率を満たすために必要な人数や費用も、ある程度計算できる。
この意味で、雇用率代行ビジネスは企業の需要に正確に応えたサービスである。
だからこそ、ここまで広がったのだろう。
問題は、企業の負担を減らすことと、働く本人の人生を豊かにすることが、必ずしも同じ方向を向いていない点にある。
働く側から見た「選ぶ合理性」
農園型の雇用を選ぶ当事者にも、十分な理由がある。
就労継続支援B型の工賃は、全国平均では月額2万円前後にとどまる。
就労継続支援A型は雇用契約があるものの、短時間勤務が多く、月収が8万円前後になるケースもある。
一方、農園型の障害者雇用では、勤務時間によっては月収12万円から14万円程度となり、健康保険や厚生年金、雇用保険に加入できる場合もある。
生活費を考えれば、この差は大きい。
一般就労は体調面や対人関係の負担が重く、簡単には選べない。
A型では生活費が不足する。
B型ではさらに収入が少ない。
その状況で、比較的安定した環境と最低賃金以上の給与を提示されたなら、農園型の雇用を選ぶことは不自然ではない。
本人が十分に納得して選んでいるケースもあるだろう。
したがって、この問題を「当事者がだまされている」「本人が考えずに選んでいる」という話にしてはいけない。
現状の制度と選択肢の中では、農園型雇用を選ぶことに合理性がある。
むしろ問題は、積極的に選びたい仕事が少なく、限られた選択肢の中から相対的に条件の良いものを選ばざるを得ないことにある。
短期的な安定と、長期的な停滞
農園型雇用は、今月の生活を安定させるという意味では有効な場合がある。
しかし、5年後、10年後まで視野を広げると、別の問題が見えてくる。
・仕事を通じて習得できるスキルが限られている
・企業本体の仕事や職場との接点がほとんどない
・次の仕事につながる職歴として評価されにくい
・昇進や職務変更、キャリアアップの仕組みが乏しい
・同じ作業を続けても、賃金や裁量が上がりにくい
体調が不安定な人にとって、今日一日を無事に終えることは非常に重要である。
「将来のキャリアを考えよう」と言われても、その余裕がない人もいる。
だからこそ、長期的な停滞は見えにくい。
本人も企業も、その日その月の安定を優先する。
しかし、時間は確実に過ぎていく。
10年間働いても、仕事内容も賃金も裁量もほとんど変わらないとすれば、その仕組みは雇用と呼べても、キャリア形成の場とは呼びにくい。
短期的な安定を提供することと、長期的な可能性を閉ざさないことは、本来両立させなければならない。
生産ではなく「時間の消費」が目的になっていないか
農園型雇用の問題を考えるうえで、作業の設計は重要である。
現場によっては、効率化できる工程が意図的とも思えるほど非効率なまま残されている。
洗い場が作業場所から遠い。
水をパイプやホースではなく、何度もバケツで運ぶ。
作業台や道具の配置が悪く、移動に時間がかかる。
一般的な工場や農業法人であれば、生産量を増やし、作業者の負担を減らすために改善されるはずの動線が、そのまま維持されている。
なぜ改善されないのか。
効率化すると、勤務時間内に行う作業がなくなってしまうからではないか。
そう考えると、この場所の目的は、生産性を上げることではなく、決められた時間を作業らしい行為で埋めることになってしまう。
もちろん、すべての農園型雇用が同じではない。
実際に販売可能な農産物や加工品を生産し、地域とのつながりを作っている事業者もあるだろう。
しかし、作ったものが販売されず、無料配布や廃棄を前提としている場合、その作業は何のために行われているのかという疑問が残る。
本来の仕事では、誰かに必要とされる商品やサービスを生み出す。
少なくとも、作業者が自分の仕事と社会とのつながりを感じられることが望ましい。
ところが、制度上の雇用人数を維持するためだけに作業が設計されているなら、そこで生産されているのは商品ではなく、「雇用しているという状態」そのものになってしまう。
「偽装工場」という違和感
この構造を、私は「偽装工場」に近いものだと感じることがある。
法律上の雇用契約が存在するため、偽装雇用という意味ではない。
給与も支払われ、出勤記録もあり、作業も行われている。
それでも、一般的な工場や事業所とは目的が逆転している。
通常の工場は、限られた時間で、より安全に、より効率よく、必要とされるものを作る。
一方で、時間を埋めることが目的となった作業場では、効率化すると仕組みが成立しなくなる。
非効率であることが、事業の維持に必要になってしまう。
これは本人の能力を生かすための職場というより、仕事に見える時間を作るための舞台装置ではないだろうか。
こうした場所で長期間働いたとき、本人に残るものは何か。
給与と社会保険は残る。
生活の安定も得られるかもしれない。
しかし、自分が誰かの役に立ったという実感や、仕事を通じて成長した感覚、次の場所へ進むための技能は残るのだろうか。
「給与が支払われているのだから仕事である」という説明だけでは、埋められない違和感がある。
現場スタッフに押しつけられる役割
農園型雇用では、複数の障害者に対して、現場管理者が一人配置される形が多い。
現場管理者は、農作業の説明だけをしていればよいわけではない。
勤怠を確認し、作業を割り振り、体調の変化に気づき、人間関係を調整し、企業や代行事業者へ報告する。
場合によっては、精神症状への対応や、医療・福祉につなぐべきかの判断まで求められる。
しかし、その役割を担うスタッフが、必ずしも福祉や精神保健の専門職とは限らない。
比較的低い賃金で募集された高齢者や、子育てを終えた人などが、十分な研修を受けないまま配置されることもある。
その結果、悪意がなくても不適切な対応が起きる。
・症状や障害について不用意に質問する
・必要以上に行動を管理する
・大人である本人を子どものように扱う
・体調不良を努力不足として受け取る
・本人の意思よりも、作業を続けさせることを優先する
・他の利用者の前で注意や叱責を行う
精神障害のある人にとって、言葉や人間関係の負担が体調悪化のきっかけになることはある。
本来であれば、経験や専門性を持つ職員が慎重に判断すべき場面を、十分な教育を受けていない現場スタッフが担っている。
これは現場スタッフ個人の人格だけの問題ではない。
低い費用で多くの利用者を管理しなければ利益が出ない事業構造が、スタッフにも無理な役割を背負わせている。
本人を守るためにも、現場スタッフを守るためにも、研修、専門職との連携、相談体制を事業の標準として組み込む必要がある。
企業と働く人の距離が遠すぎる
農園型雇用では、雇用主である企業と、働く本人が日常的に接触しないことがある。
給与は企業から支払われる。
しかし、実際に働く場所は代行事業者の施設であり、日常的に指示を出すのも代行事業者側のスタッフである。
企業の社員と一緒に働くこともなければ、自社の商品やサービスに関わることもない。
会社の事業内容を詳しく知らないまま、何年も在籍することさえある。
この構造では、企業側も障害者雇用の経験を蓄積できない。
自社の職場を改善する必要もなく、既存の仕事内容を障害のある人に合わせて再設計する機会も生まれない。
つまり、雇用率は達成できても、企業の中に障害者と共に働く文化が育たない。
企業は外部サービスを利用し続け、代行事業者は企業から利用料を受け取り、働く本人は企業本体から離れた場所で同じ作業を続ける。
全員に短期的な合理性があるため、構造が固定されていく。
これが、この問題の難しいところである。
誰か一人が悪いわけではない。
それぞれが合理的に行動した結果として、本人の成長や企業の変化が起きにくい仕組みが完成してしまっている。
福祉事業所との間に生まれる歪んだ競争
農園型雇用の拡大は、既存の就労支援や福祉事業所にも影響を与える。
A型やB型の事業所は、利用者の体調や能力に合わせて仕事を作り、商品やサービスを販売し、支援員を配置する。
特にA型事業所は、利用者に最低賃金を支払いながら、事業としての売上も求められる。
この両立は簡単ではない。
一方、雇用率代行ビジネスでは、農産物などの販売収入よりも、利用企業から支払われるサービス料金が主な収益になる場合がある。
その場合、作業そのものが利益を生まなくても、企業からの利用料によって事業を維持できる。
つまり、商品やサービスの質で競争する必要が弱くなる。
すると市場は、「どれだけ本人の能力を生かせるか」ではなく、「どれだけ安く、手間をかけずに雇用率を満たせるか」という方向へ進みやすい。
企業が求めるのが雇用の質ではなく、雇用率の達成である以上、事業者もその需要に合わせる。
丁寧な支援やキャリア形成に費用をかける事業者より、最低限の人員と作業で多くの雇用枠を提供する事業者のほうが、価格競争では有利になりかねない。
これは個々の事業者の善意や倫理だけでは止められない。
市場の目的そのものが、「良い雇用を作ること」ではなく、「雇用率を満たすこと」になっているからである。
問題の中心は、働く本人ではない
この問題を語るとき、農園型雇用で働く本人を批判してはいけない。
働く側には生活がある。
家賃、食費、光熱費、医療費を支払わなければならない。
体調に不安があり、一般就労が難しいなかで、比較的安定した収入と社会保険を得られる場所を選ぶのは当然である。
現場スタッフだけを責めることも適切ではない。
専門職ではない人が、十分な研修や支援を受けないまま、難しい対応を求められている可能性がある。
利用企業にも事情がある。
法定雇用率は上がる一方で、社内には適切な仕事や支援体制がない。
取引や社会的信用への影響を考えれば、外部サービスを利用する判断にも合理性がある。
問題の中心は、個人の善悪ではない。
企業が自社の雇用環境を変えなくても、外部に費用を支払うことで雇用率を満たせる仕組みと、その仕組みを拡大させる市場設計にある。
「選択肢を増やしている」という説明の限界
雇用率代行事業者は、しばしば「障害者の選択肢を増やしている」と説明する。
これは完全な間違いではない。
A型、B型、一般就労のほかに、最低賃金以上の収入を得られる場所が増えることは、確かに選択肢の追加である。
しかし、選択肢が存在することと、本人が自由に選べることは同じではない。
B型では生活できるだけの工賃を得にくい。
A型でも勤務時間によっては収入が不足する。
一般就労は体調や能力、職場環境の壁が高い。
生活費を確保する必要がある以上、本人が仕事内容に疑問を感じていても、農園型雇用を選ぶことはある。
形式上は本人が選んでいても、実際には経済的な事情によって選ばされている面がある。
したがって、「本人が選んだのだから問題はない」という説明だけでは不十分である。
本当に選択肢を増やすのであれば、収入だけでなく、仕事内容、成長機会、働く時間、働く場所、将来の移行可能性まで含めた多様な選択肢を作る必要がある。
制度をどう変えるべきか
雇用率代行ビジネスを全面的に禁止すれば、すぐに問題が解決するわけではない。
現在そこで働いている人の収入や社会保険が失われる可能性がある。
企業が代わりの雇用を用意できなければ、障害者の採用そのものが減るおそれもある。
必要なのは、存在を認めるか禁止するかという二択ではなく、雇用の質を評価する仕組みを追加することではないだろうか。
例えば、次のような基準が考えられる。
・生産物やサービスが実際に社会で利用されているか
・本人が企業本体の業務や社員と接点を持てているか
・職業訓練やスキル習得の機会があるか
・定期的な賃金上昇や職務変更の可能性があるか
・一般就労や別の職種への移行支援が用意されているか
・専門職による相談体制が整備されているか
・本人の満足度や意思が継続的に確認されているか
・長時間の待機や、意味の乏しい作業が常態化していないか
雇用人数だけを見る制度から、雇用の中身も見る制度へ移行する必要がある。
雇用率を達成していても、本人の能力や希望と無関係な場所に隔離しているだけなら、高く評価されるべきではない。
一方で、外部拠点であっても、本人の技能向上や地域への貢献、企業本体との交流が実現しているなら、評価される余地がある。
数字を廃止するのではなく、数字だけで判断しない制度に変えるという考え方である。
「毎日・同じ場所・同じ時間」を疑う
精神障害のある人の働き方を考えるとき、「毎日、同じ場所へ、同じ時間に出勤する」という前提そのものを見直す必要がある。
状態に波がある人にとって、決まった時刻に出社することが最も大きな負担になっている場合がある。
仕事の能力がないのではない。
通勤、対人関係、長時間の拘束、朝の体調変化に対応できないのである。
それならば、人を既存の働き方に合わせるのではなく、仕事の側を人に合わせて再設計してもよいはずだ。
非同期型のリモートワーク
決められた時間に全員が同時に働くのではなく、体調の良い時間に作業を進める。
文章の確認、データ整理、画像分類、情報収集、Webサイトの更新など、納期と成果物を基準にできる仕事はある。
ただし、単純作業を在宅へ移すだけでは、農園型と同じ停滞を繰り返す。
作業を細分化しながらも、本人が技能を身につけ、担当範囲を広げられる仕組みが必要である。
分散型の小規模生産
農業そのものが悪いわけではない。
問題は、販売や生産性と切り離され、時間を埋めるための作業になっていることだ。
小規模な水耕栽培やハーブ栽培、加工、梱包、オンライン販売などを複数の拠点に分散させ、本人の体調に応じて参加できる仕組みは考えられる。
実際に販売し、購入者から反応を得られるなら、仕事と社会のつながりも見えやすい。
重要なのは、「農作業をさせること」ではなく、本人が生産や販売の一部を担い、成果が社会へ届くことである。
複数の仕事を組み合わせる
一つの会社で週5日働けない人でも、短時間の仕事を複数組み合わせられる可能性がある。
週に数日はリモートワークを行い、別の日には地域の作業へ参加する。
体調が悪い時期は仕事量を減らし、回復したら増やす。
一社への所属を前提にするのではなく、複数の小さな仕事と公的支援を組み合わせて生活を支える設計である。
ただし、そのためには社会保険や所得保障の仕組みも、フルタイム雇用を前提としない形へ変える必要がある。
「雇用」ではなく「生活を守る」を目的にする
雇用率制度では、企業が障害者を雇用することが目標になっている。
しかし、本来守るべきものは、雇用という形式ではなく、本人の生活と尊厳ではないだろうか。
雇用契約があっても、仕事に意味を感じられず、成長の機会もなく、長時間をただ消費しているのであれば、その人の人生が守られているとは言い切れない。
反対に、週5日の雇用ではなくても、複数の収入源や社会保障によって生活が安定し、本人が自分のペースで活動できているなら、それも一つの成功ではないか。
自動化された小規模事業や、デジタルコンテンツ、資産運用など、労働時間をそのまま売らない収入の形を研究することも、この文脈では無意味ではない。
もちろん、FXの自動売買などの金融モデルには損失リスクがあり、万人に勧められるものではない。
生活費を投じるべきでもない。
それでも、「毎日決められた場所で働けない人は、低賃金の福祉か、仕事に見える作業のどちらかを選ぶしかない」という前提を疑う意味はある。
重要なのは、特定の投資方法を推奨することではない。
労働時間と所得を完全に連動させない方法を、社会として研究することである。
「何人雇用したか」ではなく、「何人の生活が安定したか」を目標にすれば、これまでとは違う制度が見えてくるかもしれない。
代案が乏しいままでは、批判だけで終わる
農園型雇用を批判することは簡単である。
しかし、そこで働く人に対して「もっと意味のある仕事を選ぶべきだ」と言うだけでは、何の解決にもならない。
一般就労は簡単ではない。
A型は事業所数や収入に限界がある。
B型の工賃だけで生活することは難しい。
在宅就労も、十分な案件と支援体制が整っているとは言い難い。
現状では、農園型雇用を辞めた後に移れる場所がほとんどない人もいる。
だから、現在の仕組みを批判するなら、同時に現実的な代案を作らなければならない。
・現在の収入を大きく下げない
・社会保険を維持できる
・体調の波に対応できる
・本人の能力や希望を生かせる
・将来の選択肢が増える
・支援する側にも過度な負担をかけない
少なくとも、これらを満たす仕組みが必要である。
理想論だけで現在の雇用を壊せば、最も困るのは働いている本人である。
おわりに:数字の先にある、人の時間
雇用率代行ビジネスは、制度の中から生まれた一つの回答である。
企業が抱える負担を減らし、働く側に一定の収入と社会保険を提供し、行政が求める雇用率の数字にも貢献している。
その意味では、合理的な仕組みだ。
しかし、合理的であることと、理想的であることは同じではない。
制度が人を守るためにあるのなら、「雇用率の数字を満たすこと」と「働く人の人生が豊かになること」は、できる限り一致しなければならない。
今の農園型モデルには、その二つの間に大きな溝がある。
短期的な安定と引き換えに、長期的な選択肢が静かに失われていないか。
本人の時間が、成長や社会参加ではなく、制度を維持するために消費されていないか。
企業は本当に障害者を雇用しているのか。
それとも、雇用率の一枠を外部から購入しているだけなのか。
そして私たちは、「雇用すること」と「生活を守ること」のどちらを目的に制度を作るのか。
雇用率代行ビジネスを単純に善悪で裁くのではなく、そこを選ばざるを得ない人がいる現実を見ながら、より良い代案を作っていく必要がある。
数字の向こう側には、一人ひとりの人生がある。
そして、そこで費やされている時間は、後から取り戻すことができない。
