うつ病という言葉を聞いたとき、多くの人が思い浮かべるのは「脳内のセロトニンが不足している状態」かもしれません。実際、病院で治療を受けている方の多くは、そうした説明を医師から聞いて、薬による治療を始めていることでしょう。たしかに、薬で気分が楽になる人もいます。しかし一方で、なかなか回復が進まなかったり、再び症状がぶり返してしまう人も少なくありません。
このような「薬だけでは十分に良くならないうつ病」の背景には、見過ごされがちな心の要素や、過去の体験が関係していることがあります。脳内の化学物質の問題に加え、心の深い部分で何が起きているのかを知ることが、回復への大きなヒントになるかもしれません。
ここでは、最新の精神医学や心理学の視点から、うつ病の背景にあるとされる四つの原因について、やさしく丁寧にお伝えしていきます。もし、あなた自身や身近な誰かが、うつ病と向き合っているのなら、少しでも心が軽くなるきっかけになれば幸いです。
セロトニンの低下が心のバランスを崩す
うつ病の治療でよく取り上げられるのが「セロトニン」という脳内物質です。セロトニンは、気分を安定させる働きがあり、日常の中で落ち着いた心を保つために必要不可欠な存在です。うつ病の方の中には、このセロトニンの分泌が減少している傾向が見られます。
過去には、うつ病の人の脳や体液を調べたところ、セロトニンの量が少ないとされるデータが注目を集めました。その後、セロトニンを増やす作用をもつ抗うつ薬が開発され、多くの人の治療に活かされてきました。こうした治療法は、たしかに症状の軽減には一定の効果があります。
けれども、うつ病はただのセロトニン不足だけでは語りきれないという見方が、少しずつ広がってきています。なぜなら、薬を服用していても、長く仕事に戻れなかったり、心の元気が戻らないままという人が一定数いるからです。そうしたケースでは、心の奥にある他の要因に目を向けることが、回復の糸口となります。
ストレスが脳に残す見えない傷
私たちは日々さまざまなストレスにさらされています。人間関係の摩擦や仕事のプレッシャー、家族との問題など、その内容は人それぞれです。こうしたストレスを長期間受け続けると、脳の働きそのものに影響が出てしまうことがあります。
近年の研究では、慢性的なストレスが脳にダメージを与える可能性があることがわかってきました。その結果として、セロトニンの分泌がうまくいかなくなったり、感情のコントロールが難しくなったりするのです。このようなダメージは、一度回復したように見えても、心のどこかにしこりとして残ることがあります。
たとえば、一度うつ病の症状が治まったとしても、再び同じような状況やストレスに直面したときに、過去の傷が再び疼いて症状が戻ってしまうことがあります。これが、うつ病の再発につながる要因の一つだと考えられています。
特に心に大きな影響を与えるのが、子ども時代の体験です。親との別れ、無視されるような扱い、学校でのいじめなど、幼少期の環境がその後の心の強さに大きな影響を与えることがあります。小さな頃に感じた不安や恐怖は、記憶の中に刻まれ、見えない形で脳や心に負荷をかけ続けるのです。
自分を大切にする感覚が失われている
精神分析の世界では、うつ病は「自尊心の喪失」と深く関わっているとされています。自尊心とは、文字どおり「自分自身を尊ぶ気持ち」です。自分には生きる価値がある、大切にされる存在だという感覚が、自尊心の土台になります。
日々の生活の中で、繰り返し否定されたり、存在を軽んじられるような言動を受け続けると、人は次第に「自分は意味のない存在なのかもしれない」と感じるようになります。その思いが重なっていくと、心が枯れてしまい、やがてうつ状態に至ることがあります。
たとえば、職場での理不尽な扱い、家庭内での無関心、あるいは友人からの無理解。こうした体験が蓄積されると、自分に価値を見いだせなくなり、やる気や希望が持てなくなってしまうのです。うつ病の背景には、このような「自分は大切にされる存在ではない」という思いが隠れていることが少なくありません。
心を回復させるには、失われた自尊心を少しずつ取り戻すことがとても大切です。それには、まず「今の自分は自分を大切に思えていない」という気づきが第一歩になります。気づいたその先に、自分自身へのやさしさを取り戻すプロセスが始まります。
幼少期の記憶が形づくるネガティブな思考パターン
子どものころの体験は、大人になってからの考え方や感じ方に大きな影響を与えます。たとえば、親との関係がうまくいかなかった経験があると、「自分は必要とされていない」と感じやすくなる傾向があります。また、周囲からの愛情や認められる体験が少なかった人は、自分に自信を持てず、「どうせ何をしても無駄」と思い込みやすくなります。
さらに、人から傷つけられた記憶が強く残っていると、「人は信じてはいけない」「誰も味方ではない」という考え方が無意識のうちに根づいてしまうこともあります。こうした思考パターンは、大人になってからもさまざまな場面で顔を出し、挑戦する意欲をそいだり、自分自身を責める原因になります。
うつ病と向き合うとき、こうしたネガティブな考え方の癖に気づくことがとても重要です。そして、それらが過去の体験から育ってきたものであることを知るだけでも、心の持ちようが少しずつ変わっていくかもしれません。何かうまくいかない出来事が起きたときに、「また失敗した」「やっぱり私はダメなんだ」と感じてしまうことが続くと、心のエネルギーはどんどん減ってしまいます。こうした考え方の連鎖を断ち切るには、まず自分の思考の癖に気づくことが鍵になります。
まとめ
うつ病は、単に「脳内のセロトニンが足りない状態」ではありません。その背景には、長期的なストレスによる脳への影響、失われた自尊心、過去のつらい体験によって形成されたネガティブな思考パターンなど、さまざまな心の要因が関わっています。
薬による治療は、症状の改善に一定の効果があります。しかし、それだけでは根本的な回復につながらない場合もあるのです。だからこそ、自分自身の心の奥に目を向け、自分を大切にすること、自分には価値があると感じられるような経験を重ねることが、真の回復に向けた大切な一歩になります。
人は誰しも、辛い体験を通じて傷つくことがあります。けれど、その傷が少しずつ癒えていくプロセスもまた、人としての深みや優しさを育てていくものです。あなたの回復の道のりが、少しでも穏やかで、希望の光に包まれたものでありますように。